🗻冨嶽三十六景・山下白雨|黒富士に潜む静と嵐

つぶやき、、、

■ はじめに

《冨嶽三十六景》の中でも、異様なまでに“黒”が際立つ作品が、この「山下白雨(さんかはくう)」です。
別名「黒富士」として知られ、見る者に強烈な印象を与えるこの一図。
そこには風景画というより、心理的な風景ともいえる構成が仕掛けられています。

凱風快晴(赤富士)と対をなすこの絵は、明暗・陰陽・動静の反転を通じて、
北斎の構図力と思想性の深さを浮かび上がらせる作品です。
(上の挿入画は、北斎のものではありません。)


■ 黒く塗りつぶされた富士山の異質性

この絵で最も異様なのは、富士山そのものが真っ黒に塗られているという点です。
稜線だけを白く抜いて、内部には一切の陰影や描写を入れない。
つまり、描かないことによって描くという構図的手法が使われています。

この“黒”は単なる色ではなく、存在の重さ、視覚の遮断、精神的圧力として画面に君臨します。

普通、山は背景にあるものです。
しかしここでは、黒富士が画面の主役というより、支配者となって空間全体を沈黙させているのです。


■ タイトル「白雨」の意味と演出

「白雨(はくう)」とは、文字どおり“白い雨”。
これは、晴れているように見えて、局地的に激しく降る夕立のことを指します。

画面右下には、その白い雨が斜めに描かれており、
それが黒い富士山と雷雲の間に差し込む光のようにも見える構成になっています。

つまり、黒=静寂と抑圧白=一瞬の乱れと浄化という、二元的構造がこの絵には内包されているのです。


■ 稲妻と雲のダイナミズム

画面左上には、大きくジグザグに稲妻が走り、
その下には、重くのしかかるような雲が立ちこめています。

この雷は単なる気象描写ではなく、黒富士の静けさに裂け目を入れる一閃として機能しています。
北斎はこの稲妻によって、静寂と緊張の均衡を破り、
絵全体に一瞬の動きと衝撃を与えているのです。

しかも稲妻の起点は画面の外にあり、「見えない何かから生じている」という想像をかき立てる余白も演出されています。


■ 構図の張力:中央を避けて構成される画面

この作品は、中央に“主役”を置かない構図でできています。

  • 黒富士は画面右寄りに配置
  • 稲妻は左上から斜めに走る
  • 白雨は右下から斜め上へ伸びる

すべてが斜め構成で構成され、中央には意図的な“空白”が生まれている

この空白が、逆に画面に緊張と期待感をもたらし、
見る者の視線を“どこに置けばよいかわからない”不安に導く。
それこそが、北斎の意図する“自然の不可視性”ではないでしょうか。


■ 対になる「凱風快晴」との比較

「凱風快晴」が赤・明・静・祝祭の富士とすれば、
「山下白雨」は黒・暗・緊・不穏の富士です。

両者は、同じ山を正反対の条件下で描くことで、
富士という存在が「状況によって意味を変える」ことを教えてくれます。

つまり、北斎はこの二図で、自然とは一枚絵では語れないという哲学を提示しているのです。


■ おわりに

「山下白雨」は、北斎の構図的実験の中でも、もっとも静かで、もっとも暴力的な一枚です。

そこに描かれているのは、山ではなく、山という存在の「見えなさ」
そして、自然の中にある予兆、崩壊、回復のサイクル。

この絵は、ただ美しい風景画ではなく、**視る者の内部に沈殿していくような“感情の地図”**と呼ぶべきものかもしれません。

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