■ はじめに
本図《甲州三嶌越》は、現在の山梨県から静岡県にかけての山岳地帯を超えて、三島へ向かう道中を描いたものです。
「三嶌(みしま)」とは駿河国三島宿を指し、甲斐から駿河へ抜ける街道として古くから旅人や荷運び人に利用されていました。
この地は、富士山の東麓にあたる峠道で、厳しい地形と美しい眺望が交錯する“峠越え”の象徴的な場でもあります。
(上の挿入画は、北斎のものではありません。)

■ 構図と視線の誘導
本図は、一見して中央にそびえる巨木が目を引きます。垂直に立つ幹は、構図の軸として強い存在感を放ち、観る者の視線をまっすぐ上へと誘います。
続いて、右奥には青黒いシルエットの富士山が、煙のような雲をたなびかせながら聳え立ちます。
画面左下から右上へと続く道と、人物たちの動きもまた、視線の流れを助けています。
自然と人間の営みが、一本の巨木と一座の旅人たちによって調和的に構成された、静謐ながらも力強い一枚です。
■ 主題に込められたメッセージ
巨木に触れたり抱きついたりする旅人たちの姿には、山中での無事を祈る信仰的な行為、あるいは旅の休憩の一場面としての描写ともとれます。
彼らの姿は、過酷な山道を越える旅の一瞬の安らぎや、人間の小ささ、自然との向き合い方を象徴しているようです。
北斎は、静かなる風景のなかに、人間の営みと自然の大きさを並列に描くことで、物語性と詩情を含ませています。
■ 三嶌越の地理と歴史的背景
三嶌越(みしまごえ)は、甲府盆地から駿河三島に至る主要な山越えルートのひとつ。
江戸時代には参勤交代や商人、修験者らが行き交う重要な街道でした。険しい山道ながらも、富士を望む絶景ルートとして知られ、信仰や旅の道中記にも頻繁に登場します。
この図では、こうした歴史背景を感じさせつつ、あくまで庶民の視点に寄り添った視線が印象的です。
■ 富士山と空の描写
本図に描かれた富士山は、雲と共に噴煙のように立ちのぼる構図が特徴です。
山肌の色合いは青みが強く、手前の雲と合わせて、まるで神域のような雰囲気を醸しています。
青から白へのグラデーションで表現された空は、晴天のなかに漂う涼やかさと清浄さを感じさせます。
■ 色彩とコントラスト
巨木の緑、人物の衣服の藍、富士の青、雲の白。それぞれの色が強く際立ちながらも調和を保ち、全体にメリハリのある印象を与えています。
人物の細かな描写に比して、富士や木々のシルエットは大きく、シンプルな輪郭で描かれており、自然と人間とのスケール感の違いを巧みに伝えています。
■ おわりに
《甲州三嶌越》は、「峠」という過渡的な空間を舞台に、人の祈りと自然の偉容を同時に描き出した作品です。
旅という非日常のなかで、ふと立ち止まり、見上げる空、触れる木、そして遠くの富士。
北斎はここに、移動する人間のドラマと、その背景にある悠久の自然を、見事に共演させました。
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